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2017.05.27

特別コラム:谷 進一郎 「木工家の時代を考える」

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今回のフォーラム「木工家の時代を考える」では、第2部で諸山正則さんと木工家第一世代の4人が登壇しますが、その4名が予め「木工家の時代を考える」をテーマに、思う所を文章化して公開することにいたしました。

諸山さんにはこの4人の書いた内容を踏まえて、第1部で「木工家の時代の背景と特質」と題して講演していただき、第2部では、4人が書いた文章の要点を話してから、さらに話し合いで深めたいと考えております。

フォーラムの限られた時間で、より良い内容にできればと企画したものですので、お忙しいとは思いますが、フォーラムに参加される方は事前にお読みいただけますようお願いいたします。
また、参加予約されていない方も、お読みいただき、今回のフォーラムの内容に関心をもっていただければ幸いです。
-谷 進一郎-
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「木工家の時代を考える」
谷 進一郎

 

「木工家」とはどういう人ですか、と問われた時に、私は、「職人」と「作家」それぞれの要素を持ちながら、特に自然が育んだ「木」と先人から受け継いだ「木工」という技や造形をリスペクトして、良いモノを作り残そうという「志」を持った生き方・働き方をする人だと考えていますが、この様な「木工家」に至る背景や影響について、「木工家第一世代」の一人として、私の来し方を遡って考えてみたいと思います。

 

1960年代末期、ベトナム戦争などに反対する政治活動や様々な大学内の問題に対する異議申し立てなど、「全共闘」といわれる「学生運動」が盛り上がり、その矛先は政府や自民党、各大学の理事会や教授会などに向けられていましたが、その一方で、既成の価値観や自分たちの生きかた、将来の働き方に対しても、問い直しをしていました。また当時の中国の「文化大革命」では、学生・知識人は労働者・農民に学び、都市から地方へ「下放」することが勧められていて、そうした思想にも影響を受けていました。

 

そんな状況で私は美術大学で家具の「デザイン」を学んでいましたが、高度経済成長で豊かな暮らしを手に入れた一方で公害やゴミ問題などが深刻になり、「デザイン」され「大量生産」されたモノが「使い捨て」られるひずみを感じるようになっていました。人々の暮らしが「大量生産」されたもので支えられていることはわかっていても、自らが「大量生産」を進める「デザイナー」にはなりたくない、という思いもあったので、高度成長期には前近代的とされた様な無垢の木を使い手仕事を主に作っていた松本民芸家具を知り、「使い捨て」を美徳とする風潮と対極にある思想に惹かれたのでした。私は、大学を出て「デザイナー」になって「職人=労働者」を指導して製品を作らせる、という「既成の価値観」に捕らわれずに、一から「職人」に学ぼうと考えましたし、東京に生まれ育った私が地方へ移住することを前向きに考えたことも、「全共闘」をとりまく思想の影響があったと思います。

 

そして、民芸家具で修業するということは、将来は民芸家具の「職人」となって行くのが「当たり前」の働き方でしたが、数年後に退社し独立して仕事をすることは「既成の価値観」にこだわらない自分の気持ちでは自然な成り行きでもありました。資金も乏しい「職人」の「工房」として始めましたが、その後、多少商売が繁盛しても、儲けようと「工房」を拡大することは自分の「志」とは違ったものでしたので、「工場」や会社にしたり、経営者を志向することはありませんでした。最初は民芸家具風の家具を個人の注文で制作する「職人」として始めましたが、京都で木工芸の「作家」で人間国宝の黒田辰秋の仕事を見て、堂々とした存在感に感動してから、家具作品を制作し展覧会を開催する「作家」としても活動するようになりました。

 

とはいえ短い修業期間では「職人」としては半人前で「作家」としてもまだ自分のスタイルもなくて「職人」とも「作家」とも自称するのが憚られました。しかし「職人」と「作家」のどちらにも徹しないということは、それぞれの仕事の本当の厳しさを避けているともいえるわけで、「木工家」の仕事は「職人」としての完成度が低く、「作家」としてもオリジナリティが乏しいと指摘されることもありました。

 

1980年代になって木工家の仕事は、社会の高度成長期の弊害の反省から、環境重視、自然志向、脱都会、脱使い捨て、などが脚光を浴び、木工ブームが到来しました。無垢の良質の木材で、手作業を主にして丁寧に作った家具や木工品は、長く使い込んでもらえることをセールスポイントにして、その制作に手間がかかったりして多少高額になっても顧客が絶えることはありませんでしたが、そういうものづくりにこだわることで、顧客もそうしたこだわりに共感してくれる人たちに限られてきて、一般の人たちの暮らしとは乖離してしまう矛盾も感じていました。一般の人たちにこうしたこだわりの家具や木工品で暮らすことの豊かさをアピールするには個人の力には限界があり、各地に個人工房を始めた木工家が出てくると、私は積極的に交流を深め、お互いの情報を共有して、共感してくれる人を増やそうとしました。

 

私が関わったのは、まず1978年に東京周辺の若い木工職人や作家を志望する人達が集って熱い木工談義を続けていた「木工を考える会(木考会)」に参加しましたが、この会は、代表もいない、会則も参加資格もない、木工好きの集まる「広場」の様で、何かやりたい人が「この指止まれ」式に始める、という、いわば「全共闘」の様な活動を続けていました。「木考会」は数年後には消滅しましたが、発足から40年目の今年6月には、例会場だった中野の「モノ・モノ」で参加メンバーの同窓会と展示とトークを開催します。1980年にこの会で開催した「木の仕事展」は1週間で4000人超の来場者があって、その後の「木工ブーム」の切掛けになったともいわれていますが、この「木の仕事展」はその後、5人の木工家による「木の家具展」として続け、今年35回目となりました。「木考会」の後は、長野県内の木工家が集まって現在も続けている「信州木工会」ですが、こちらも来年松本で40周年展を開催します。

 

そして「木工家」自らが連携して「木工家」の仕事への理解と関心を広げようと2008年から「木工家ウィーク」を始めて、続いてインターネットを活用して恒常的に活性化しようと始めた「木工家ネット」には400名を超える木工家が参加しています。こうした活動を続けてきましたが、組織的にはどれも旧来の同業者の「組合」といった性格よりも、「独立」して志をもった木工家が「協力」し「共有」する、「全共闘」的に言えば「連帯を求めて孤立を恐れず」といった関わり方をしてきたと思います。

 

1980年代からの木工ブームでは「木工家」が都会から地方へ移住する新しいライフスタイルとしてマスコミで紹介されると、思い通りにならない仕事ややりがいのない日々に見切りをつけ、脱サラして職業訓練校に通って独立する、という人達が増えましたが、一時は売れたとしても、デザインや造形の基礎もほとんど習わず、技術の研鑽や質の向上に努めなければ、使い手に飽きられてしまいましたが、組織から脱してきた人達の中には、「木工家」のスキルアップのための連携を敬遠する傾向もあるように思えます。

 

私たちが使う「木材」や家具製造業界の状況は年々悪化して、一方で私たちの仕事を買って使っていた「本物志向」の使い手たちは高齢化して購買意欲は減少して、次世代になると、住宅メーカーが家具までセットにして売り込んだり、ニトリ などは低価格品を並べていて、生活環境にこだわらない使い手はそれらで満足していて、無垢の木を使って手間をかけて良質な家具を作り続ける事がとても難しくなってきています。メーカーやデザイナー、ショップなどは組織的、専門的にこの状況に立ち向かっていますが、「木工家」は協力しても非力なのに、ほとんどバラバラに動いている状態でした。これから益々「木工家」に厳しい時代となり、ベーシックな情報はシェア(共有)した上で、何か特色のある独自のスタイルの「木工家」でないと生き残ることは難しいのではないでしょうか。

 

私の工房では過去20名ほどの若者が修業して、大半が独立して木工家として活躍していますが、今春からは次世代の木工家へ私の経験や情報を修業という形ではなくシェア(共有)したいと、工房で「木工家育成講座」と称して始めましたが、教えるつもりの私が勉強することも多く、改めて「木工」の魅力と奥深さを感じていますので、次世代の木工家にもそこを伝えたいと思っています。

 

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